mercredi 13 janvier 2010

Livre A 第2章について


この章では、科学が何を目指しているのかを、賢者(や哲学者)を分析しながら論じている。そこで特に問われるのが、第一に、個別の事実ではなく全体を知っているかどうか。第二には、何か他のもの(例えば、物質的な利益)のためではなく、そのものだけのために、すなわち知ることだけのために対象に向かっているのかどうか、という点である。

第一の点について、このように言い換えができるだろう。全体の知はすべての個別のものを束ねる可能性があり、それは原理と原因に因っている。科学はこの原理と原因を明らかにすることであり、科学の最終目的はこの両者を体現しているのが神に関わるものである。これこそ、この自然界における最高の善になる。また、第二の点については、人間はいろいろなものに縛られており、実利に結びつくものを求める傾向にある。あるいは、物質的利益を求めるが故に自らを縛ることになるとも言える。ここで求める真の科学は、他人のためのものではなく、自らの知的興味のためだけに働くことで、そうすることによりあらゆるものから自由になることができる。これこそ、人間性を超えた境地に至らしめるものだろう。


アリストテレスの考えを読み、現代において問題にされる科学の進め方の二つの流れが今から2400年ほど前にすでに論じられていたことに驚きを覚える。その時代の人間とは一体どのような人たちだったのか。一度会ってみたい衝動に駆られていた。それはさておき、現在問題になっていることが当時と何ら変わっていないことが分かるだけではなく、アリストテレスの考えていた最高善の科学が今やどんどん片隅に追いやられている印象が拭えない。

私の考えもアリストテレスに近く、それがアリストテレスのものだとは知らなかったが、この考えに従ってやってきたつもりである。しかし、キャリアの最後の方では実利に結びつくものが声高に求められ、その流れは今まさに加速している。このような状況で育つ若い研究者、あるいはこのような状況で科学を始めようとする若者には、ひょっとすると原理を求めてそのものだけのためにやるという精神は失われているかもしれない。実利が尊ばれ、そこに結びつくものしか評価されない環境においては、それは当然の流れだろう。

そのものだけのためにやることに意義を見出す精神、それは人間の自由とも関連してくる。この精神が育つためには哲学的な思索が必要になるのだろう。しかし、人間が環境の動物である以上、その環境の影響は無視できない。この環境を変えることができるかどうか。その決定的な要素は、科学の営みが経済的に自立できるかどうかにかかってくるだろう。この問題の解決が難しいのもこの点で、これを克服するためにはどのような道があるのか。第2章を読みながら、これからの大きなテーマを抱え込むような気持ちになっていた。


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